鳥取県文化振興財団情報誌【アルテ】

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2015March

鳥取県芸術家百華Vol.70 作曲家 上萬雅洋さん

なぜ作曲・編曲活動を?

私が音楽をはじめたのは小学生低学年の頃です。両親が音楽好きでしたし、祖父はヴァイオリンを弾いていたそうです。ある日、家に帰ったらピアノがあり、ほぼ強引にお稽古に行くことになりました。でも遊び盛りでしょ、1年間くらいでやめてしまったように思います。その後は好きな曲を適当に弾いて楽しんでいました。小学生高学年くらいになると楽譜を書くことに興味を持ち、アニメやCMの曲を耳で聴いては五線譜に書いていました。今見ると笑ってしまうような楽譜ですけど…。

中学高校は吹奏楽部でした。同級生に比べると私はなかなか上達せず、何度も辞めたいと思いました。私は先天性の麻痺があり、身体は弱く、今でもとても不器用です。それでも続けて行くうちにどんどん熱中し始めました。朝は学校の鍵が開くのを校門で待ち、誰にも負けないくらい練習しました。いろいろな楽器も演奏しました。部活中はバスクラリネット、部活が終わったらトランペットやサックス、ホルン、ベースなどやっていました。このような楽器経験をもとに、中学時代からいろいろな曲を編曲し始めました。

作曲は主に高校時代から始めました。その頃はシンガーソングライターが夢でした。ピアノが下手だったため音大をあきらめ、保育士の道へ進むことになりますが、音楽に関する知識は本を読みあさって身につけていきました。高校卒業してからは、演奏会の裏方をボランティアでやっていました。舞台作りから撤収、ゴミ捨てまで何でもやりました。いろいろな失敗もして、諸先輩に怒られながらも頑張って続けた記憶があります。「いつか自分も表舞台へ」と夢を抱いていました。28歳の時に鹿野町ミュージカルの作曲を頼まれたのをきっかけにオーケストラの曲を書くようになり、少しずつ作曲家として世間に認知してもらえるようになってきたように思います。

「交響曲第1番」作曲時の
  エピソードを教えてください

「交響曲第1番」は鳥取大学大学院(新倉健(にいくらけん)研究室)の修了研究作品です。初演(2013年10月13日 鳥取市民会館)は指揮に高野秀峰(たかのひでみね)氏、演奏は鳥取市交響楽団。交響曲を書くことは中学の時からの夢でした。さまざまな音楽の中でも交響曲は最高峰の建造物であると思っています。

1曲書き上げるだけでも相当の手間と時間を必要としますが、発表するのにはさらに多大な労力を必要とします。その点私は素晴らしい先生、演奏家に出会えて幸せだったと思っています。作曲の際には、多くの人の共感を得ながら、その中でいかに自分らしい音を作っていくか、ということを大切にしています。交響曲第1番は東日本大震災をテーマにさせていただきましたが、震災にあわれた方々の苦労や、あの光景を目の当たりにした方々の心痛は私の想像を遥かに超えるものでありましょう。この曲の表現が必ずしも的を射ているとは思いませんが、皆様の心に少しでも寄り添うことができたら、と思っています。

交響曲第2番にも、もちろん挑戦します!一つ一つの音を紡いで行くのは苦悩の連続ですが、「鳥取から世界へ…」を信条に自分自身と闘って参りたいと思います。

アルバム
「交響曲第一番」の初演は収録されCDとなった

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