鳥取県民文化財団情報誌 アルテ
2007年11月
アルテとはスペイン語で「芸術・美術・技巧」などの意味で、英語では「アート」。アルテでは、県民文化会館をはじめ鳥取県内の文化施設のイベント情報を紹介しています。

 近年、和太鼓、三味線、落語、いろいろな和のエンターテインメントが脚光を浴びてきました。
しかしそれ以外にも、まだ日本伝統芸能の分野は多岐に渡っています。「浪曲」もその一つですが、「旅、行けば〜」のフレーズで有名でも、耳にすることは少ないと思います。しかしこの「浪曲」、落語の様な語りに、歌と三味線がくっついただけではありません。奥深いその世界、実は「平成」の現代にも脈々と進化を遂げているのです。


 江戸時代から、「浮連節うかれぶし」、「難波ぶしなにわぶし」という記述が文献にある様に、浪曲の原型はあったようです。明治5年に、東京に「浪花節組合」が設立され、明治36年には、浪花亭愛造が浪花節初のレコード吹き込みをしています。大正に至るまで、その盛り上がりを見せ、浪曲の人気演目も次々と登場し、人気を高めていきます。昭和10年、東京・九段に日本浪曲学校が開校する等、次世代の育成も広がりを見せています。終戦まもない昭和20年8月25日には、浅草松竹演芸場で浪曲大会が開かれる等、浪曲は、当時の人々にとって娯楽の筆頭だったと言えるでしょう。昭和26年には、民放ラジオ局が続々と開局し、聴取率の高い浪曲番組を採用。全国的な浪曲ブームが起きます。その後、高度経済成長の中でテレビの普及、大衆の娯楽も多種多様になり、浪曲界のスターの引退も重なり、かつての繁栄は潜めることとなります。
 明治21年に芝居小屋として建設された「朝日座」は、米子で最も古い劇場で、昭和29年くらいまで数々の演芸を上演してきました。川上音二郎・貞奴、エンタツ・アチャコ、淡谷のり子等の多くのスターも舞台に立ち、人形浄瑠璃、浪曲、歌舞伎等、多彩なジャンルのものが行われました。
 終戦の翌年、昭和21年に浪曲界のスター、広沢虎造が出演するなど、戦後、浪曲は毎年開催され、朝日座には欠かせない演目であったと言えます。

(主な出演者、催し)
昭和21年 広沢虎造、天中軒雲月、松浦四郎、京山小円、京山幸枝など
昭和24年 関東関西浪曲名人会、大浪曲顔合せ、女流浪曲大会
昭和25年 名流浪曲母子大会、東西新進浪曲大会、浪曲親子競演
昭和26年 浪曲大会(木村若衛、広沢虎造、東家浦太郎など)
昭和28年 新進浪曲六座長競演
昭和29年 親子合同浪曲大会(春日井梅鳶、加寿子)

 戦後、娯楽の多様化で一時期衰退しましたが、現在、春野百合子等のベテランに加え、菊地まどか、春野恵子など若手女性の活躍も注目されています。また、国本武春の様に、現代に合う独自の新しいスタイルの浪曲が人気を得ています。
 現在、浪曲の定席としては、東京・浅草「木馬亭」、大阪・天王寺「一心寺南会所」があり、ひと月のうち3日〜10日程度、上演されています。
 江戸時代・1701年(元禄14年)3月に江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩主・浅野内匠頭が高家肝煎・吉良上野介を斬りつけた刃傷沙汰に端を発する。加害者とされた浅野は切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされた。その結果を不満とする大石内蔵助をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士)による、元禄15年12月の本所・吉良邸への討ち入り、その後の浪士たちの切腹までを題材にとった物語。江戸時代から人形浄瑠璃や歌舞伎での人気演目で、浪曲でも数多く上演されています。
 特に、国本武春の大忠臣蔵では、「田村邸の別れ」はバラード調で、「吉良邸討ち入り」はロックのリズムに乗り、音楽と浪曲の新しい融合が、幅広い年代に支持されています。
参考文献●「浪花節」「忠臣蔵」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2007年10月8日、10日 ●「実録浪曲史」唯二郎(東邦書房) ●「朝日座残照」亀尾八洲雄 ●「上方芸能165号」



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